「心の中の故郷」 ー天草島ー 荒木忠夫

熊本ごみしょりおじさんと湯島紀行

2011年02月15日 12:04


先日.会社の定期歯検診で.
私の歯を見た医者が
「この年齢で虫歯が一本もなく.
          しかも歯並びが
      きれいな歯は珍しい」と感心し.
生まれは どこかと聞いた。
私が 「九州の天草島だ」と答えると
「やはり そうですか」とうなずいて
納得していた。
その医者の 話では. 島育ちの人は
海藻などの食物の影響で 統計的に 
歯が 強いのだそうである。
なるほど 私は38歳の現在になるまで
虫歯の痛さというものを
全く知らないし. 歯医者にかかった事も
一度もないのである。

しかし.私は.医者の簡単な納得に・
何か物足りなさを 覚えたのである。
私には.38歳の現在の強さよりも
歯が強くならざるをえなかった幼少時代の
ふるさとでの貧しい生活.しかし.その中でも.
常に ほのぼのとしたぬくもりを
感じさせてくれた母の.心の匂いが
大切に 思えるのである。

私のふるさとは.熊本県の 天草島である。
島原の子守唄に 
「おんのいけん(鬼池)
  忠助どんの 連れんこらるばい」

歌われている 天草下島の最北東にあたる
五和町鬼池(おんのいけ)という港のある
半農半漁の 小さな町である。

五和町は.昭和30年頃.五つの村が 合併して
出来た町であり.私はその中の 
鬼池村で育った
私は昭和23年頃 
鬼池(おんのいけ)小学校に 入学した。
私の家は いわゆる五反百姓の農家で
八人の子供を 養うのは楽ではなかった
米の飯を食べるのは 盆と正月と村祭りに
限られており 日常は さつま芋か
麦飯であった。 しかし当時は鰯が豊富で
地引網でいくらでも取れた為 
食べきれずに 田畑の資料(いわしこえ)に
するほどであった。

私たち兄弟は 厳しい父に この鰯を骨のまま
食べさせられており 父の目を盗んでは 
そっと骨を お膳の下に隠して 捨てたのを 
覚えている。芋と 鰯が当時の 
私たちの常食であり お菓子や飴など
甘いも物など めったに食べられず 
鰯を骨のまま食べてて 腹を満たしていたから
歯医者などいらないのである。
終戦から何年かは 日本中 どこでも
同じような 食料難の状態が 語られているが
私の家では 零細農家のうえに八人兄弟という
子沢山で 私が中学に 行くようになっても
あまり 生活水準の向上は みられず
相変わらず同じような状態であった。
当然のように 姉や兄は 中学卒業と同時に
口減らしの為に ちょっとした コネでも
頼っては 島から 出て行ったのである。

私は 姉や兄が 小さな連絡線で
港から出て行くたびに.突堤の先端の
赤灯台の下で.いつまでも立ち続けていた
母の姿を.
今でも はっきり思い出すことが出来る。
海の上に約200メートルも延びた防波突堤と
その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは
8月15日の夜の幾重にも重なって.
その灯台の沖を流れる精霊船と共に
私の心の中にある
ふるさとの一つの風景である。
鬼池には 天神山と言う富士山に似た形の
山がある。
天神山は 鬼池で一番高い山で.
海抜171メートルあり その山頂からは
村中が見渡せ.海の青さと小さな島々の
松の緑.波の白など
その眺めは 素晴らしいものであった。
天神山は 鬼池村の守り神で 山頂には
ほこらが建てられ.7月25日が 
その祭りであった。祭りには 仕事を休み
ダゴ(田子)を 作って祝い.
山頂で子供達の相撲大会が
行われるのであった。
私は一度だけ その相撲大会で関脇を
もらった事があった。

中学一年生に 入学した年の春の遠足は.
私にとって.一生.忘れられない遠足であった。
遠足の楽しみは弁当であり. 私の家でも.
遠足の時だけは母がいつも. 米飯の大きな
にぎりめしに. 玉子焼きを
添えてくれるのであった。
その遠足の朝.母は. 私に弁当を渡しながら.
悲しそうな目で. 中味が芋であることを
告げたのであった。そして. 私の手を強く
握って.しばらく離そうとはしなかったのである。
私は大声で母をののしり. その手を振り解いて.
泣きながら走ったのであった。
弁当の時間. 天神山のつわぶきの.
芽吹いた藪の中で. 私を探す友達の声を
遠くに聞きながら. 私は空腹に勝てず.
その芋を 泣きながら. かじったのだった。
中学生の私には. その時の母のつらさが
どんなものであったか 理解できるはずもなく.
帰ってからも.母をせめ続けたのであった。

昭和36年の夏 天草地方は未曾有の 
大干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は 
至るところで井戸が掘られ
水探しが続けられたが. しかし雨はいっこうに
振らなかった。 そして誰が言い出すこともなく.
雨乞いをすることになったのである。
各農家から一人づつ人を出して.
何人かづつ組になって. 天神山の山頂から.
雨乞いが本当に行われたのであった。
毎日朝から夕方まで天神山の上で打ち鳴らされる
太鼓の音が. 村中に響き渡ったのである。
私の家からは 母が出ることになり.
真剣な顔をして. 近所の人達と一緒に.
山道を登っていったのであった。
その雨乞いの結果で 雨が降ったかどうかは.
はっきりした記憶がない。しかし 今でも
天神山の祭りが 続いているところをみると
多分. 神様のごりやくが あったのでは
なかろうかと考えるのである。
鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい
姿も又. 少年時代の思い出の中で.
何とはなしに 母のイメージと重なって.
私の心の中に. ふるさとの風景として
残っているのである。

天草の正月も又. 母を通じて.
私の心の中にひとつの風景を残している。
それは私が中学三年生で. 高校受験を
間近に控えた頃のことであった。
私は先生の勧めもあって. 他の二人の
友人と共に.天草島を離れ. 熊本市内の
高校を受験する事を 目標に頑張っていた。
市内の高校に行く事になれば. 
下宿が必要で. その為に要する費用は
大変なものであった。
8人の子供をかかえた五反農家の父母には.
とうてい. そのような余裕など
なかったのである。
それでも父母は 何とかして. 
私を 希望通りの高校に 進学させようと
いろいろ努力をしたようであるが. やはり
無理だったのである。
12月の或る寒い夜. 父は私を囲炉裏の端に
座らせて. 市内の高校をあきらめて.
地元の高校に進学して欲しいと私に言った。
私は 泣きながら父のかいしょうの無さを
大声でののしった。
日頃. 厳しい父も その時は無言で何かを
かみしめているようであった。
母は 何かを頼むような目で
私をじっと見つめ その目には
涙が光っていた。 しかし 私は
消えかけた囲炉裏の火を 見つめながら.
父母をののしり続けたのであった。

それから 私は 勉強もせず. 
家族にも 口を聞かない日が続いた。
その為 家の中は 毎日なんとなく 重苦しい
日が続いた。 そして 年が開け元旦となった。
私は. 家族全員で 行う初詣にも参加せず.
一人で布団を かぶって 寝ていたのであった。
朝 目を覚ますと 枕元に5・6枚の年賀状が
置いてあった。
私は 床の中で 何気なく それを手にし
たいした感情もなく 一枚づつそれを
めくっていった。
それは ほとんど同じクラスの
友達からのもので
今年もがんばろう 今年もよろしくと言う
内容のものであった。しかし 最後の一枚を
読みながら 私は驚いた。
それは およそ年賀状らしくない
長々しいものであり 鉛筆書きでところどころ
その芯をなめたらしい 濃い部分が残り
カタカナまじりで 書かれていた。
差出人の名前はなかったが 私には それが
同じ家に住む 母からのものであることは
すぐに 判った。

「お前に あけましておめでとうと言うのは
つらい。でも.お母さんは. お前が元旦に. 
みんなの前で 笑いながら. 
おめでとうといってくれる夢を
何回もみました。お母さんは 小さい頃.
お前が泣き出すと. 子守歌を唄って.
泣き止ませましたが.
今は もうお前に 唄ってやる 
子守歌も無いので 本当に困っています。
今度は. お前がお母さんに
子守歌を 唄ってほしい・・・・」

十四歳の私は 元旦の床の中で声をあげて
泣いた。 それは.中学三年生の反抗期の
私に対する 母の心からの
子守唄だったのである。

この母の子守唄のおかげで. 
私は 立ち直り地元高校に進学し 
その後 高校を卒業と同時に大学へも進学した。
父は.私の大学入学の時.大切に残してあった
山の種松を 売って3万円の 入学費用を
作ってくれた。 しかし その後は
私は 父母の援助も ほとんど受けず
アルバイトと 奨学金で大学も卒業することが
出来たのであった。

そして.現在の会社に就職して
もう.十六年が経ち.長男もやがて
中学生になろうという年齢になってしまった。
そして 昔の私と同じように.
もう. 親に反抗をし始めているのである。
しかし 私の心の中に
ふるさとの 母の匂いのする鬼池の赤灯台と
天神山の やさしい風景がある限り
私は 大丈夫だと思っている。
母も 70歳となった。この母が.
これから どんな子守唄を
唄ってくれるのだろうかと 考えながら
ふるさと出身の妻と 反抗期の子供をつれて
私は 母の住む天草島に 今年も
帰りたいと 思っている。・・・・・完

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