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2010年07月04日
努力の昭和最後の英雄 ”オグリキャップ”

昭和の最後の 英雄が終わった。
英雄の死なんて こんなもんかも知れないとも 思った。
泥濘に 足を取られて 折れてしまったらしいが
人も 動物も 立派な死に方なんてありはしない。
ハイセイコー以来の 名馬であまり競馬にも詳しくない
おじさんも引き付けた クラシック 登録も無く
人間で言えば 身体障害とも言える右足の欠陥
地方競馬から 中央競馬え 三冠馬には成れない
ハンディー・ バックアップの無い 地方出身
言えてるのは 何処か身体的にも 育ち的にも
学歴的にも 身に余るくらいの ハンディーを
背負いながら 走りつずけるオグリに
自分をダブらせてた
”金の卵”世代や ”団塊世代”が 40才前後で
夢の途中で 駆け上がる貪欲なエネルギーを
貰ったに違いない。
最後のレース もう 戦うなと願った 有馬記念でも
彼は 戦うのが宿命のように 最後まで”一等賞"を
目指して ハンディーの 前右足で 大かきしながら
只管に ゴールを めざし
そして 悲運の成り上がり将では終わらなかった。
最後の一歩まで 全力で駆け抜けた
努力の将であった。 私が生まれてはじめて
動物を愛し尊敬した時であった。
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2010年06月26日
ピカチューと倒産と時間と家族

こんな 子供の夢も 閉鎖の始末には 悲しいもんだ。
ただ 今までは 私の年代以上の
倒産に 立ち会ってきたが
最近は 年代的には 私の年代以下が
多くなってきた。
今や 悲惨さ等 そんなに無く
坦々とした倒産・閉鎖が多い
同年代で 40才代に倒産した友達は
家庭を守れなかったと
今でも 嘆きながら 長い間 子供の養育費と
生活費を 送りながら
今や 子供も成人してしまったが
逢う事も 遠慮しがちな 単身生活である
嫁さんも 形だけの離婚であったが
何時の間にか 縁遠くなってしまい
本当の 意味の 更正した生活には戻れないと
嘆く 自分の責任だとも言う 友達に最近の
坦々とした倒産の 主人公の在り方を 話して
もっと フランクに 考えたらどうだとも 言うが
子供にも 自分にも 女房にも 無くなった時は
返らないと言う。
それは 誰でも同じ 過程なんだが
彼には 自分の世界だけが 存在している。
もう そんなに 先の長い人生でもない
友人よ 捨てれるもんが 残っていれば
思い切り もっと 裸になるくらい捨てたらどうだ。
そして もう一度 新しく構築しなさいとは
いわないが 必要なもんだけ もう一度
拾い集めてみたたら 何とか生きれそうだぞ。
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2010年05月22日
九州独立国と不況と納税

不況は やっぱり
コンピューター世界も
襲う 各県に
事務所が あるのを
九州ブロックは
福岡に一つと 企業も
足早に 州ブロック制に 身を置きつつある 何となく
地方政治が 力を増してきたような 気がする。
中央行政に ゴマを擂リ ぺこぺこしながら予算をお願いする。
中には 官々接待とやらで これを 通してもらう
もう そんなあり方は 必要としなくなった。
州ブロックが 小さな国として 独立も 無理ではない時代だ。
その内企業も 工場も納税の 少なく済む 州へ移動を始める
日も 遠くは無い。
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2010年04月21日
故郷と世間と後輩と不幸
後輩が尋ねてきた。
もう 建設会社も
経営していて
単身 故郷を出て
身一本で 小さな建設
会社を 持てるように成ったのは 世間が 受け入れてくれた
からと 感謝していた。
それは おじさんにも 経験ありで 島からいきなり14・5歳の
少年が 本土の社会に出てきては 馴染む 学ぶ 慣れる
どれを取っても 努力の方法さえ解らず
一度は 何とも言えない気持に 落ち込んでいく
周りは ホームシックなんて一言で かたずけるが
そんな簡単なものではなかった。
貧しくて 生活も 就学も 出来そうにない 故郷に
帰ろうと 思う事も無かった。
思うように 表現も出来ない少年達は 言い知れぬ矛盾の
世界に 複雑なジレンマを 抱きながら さまよっていたに
違いない。
ともあれ そんな生活の中から 独立・会社創設等
至難の業であった。
小さくとも それを成しえただけでも
「お前は 偉大だ!」と 感心していたが
天も 何処まで試練を与えるのか
「先輩 嫁さんが 今年いっぱいのごたる。」
つまりは 肺がんで 今年いっぱいで 召されると言う
こんなに 一生懸命生きても 不幸は付きまとう。
頑張れ その中 奇跡と言うことも たくさんある。
天には 逆らえないが 奇跡を待つことと 努力は出来る。
そして 何としてでも 夫婦で晩年の夢を見るんだ!
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2010年04月02日
炊飯器と人の一生(その1)

熊日新聞の閑人囈語に
感動した 何でもない社会の
出来事が 同じような事が
あるんだと 感心した。
それは 歌人の 石田比呂志の 「万引」と言う
作家 井上ひさしさんの 随筆集の 紹介であったが
もう 20数年前になるか 現代のリサイクル店とは程と遠いが
簡単な 持って来ては 積み重ねて適当な値段で売るだけの
現代の リサイクル店の走りを 始めた頃の話だ。
洗いテスト済の展示した 炊飯器が 盗まれた事があった。
いつもの事だが取られた所に 紙に親子4人 細々の暮らしを
している事と 出来れば返して欲しいと 多少脅迫じみた事を
書き 張り出していた。
これからの予防と 鬱憤晴らしの意味もあった。
しかし 何を間違ったか 一週間もしてから 若い青年が
片手に 炊飯器を持って現れた。
驚いたのは おじさんであった 今まで一度としてこんな事は
無かったから 対応に苦慮したが
やがて おじさんは 青年を 事務所に入れ話を 聞いた。
(明日叉報告)
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その2)
聞くのも おかしいが
先ずは 聞いた
少し おじさんは
現れた事に 青年の
良さを 感じていた。
近年で こんな事は 想像もしていなかった。
彼は 生まれが 地方の漁師村で 高校は 何とか出して
もらったが 一番目の就職先が 自分に 合わず無職で
家にも 帰えれず 食うものも 無いと言う。
田舎え帰る事を 進めても 受け入れる 実家の 余裕も
無いと言う。
炊飯器が 在っても 米が無ければ どうにも出来ない
旨を 伝えると
アルバイトをして 米を買って 一度焚いておけば
何食でも わずかな おかず代で 過ごせる事を強調した
それも理屈だと 思ったが 感心している場合ではない。
それと 盗みは 結びつかない事を 叱った。
しかし 何処か 田舎出で 漁師村で 親父は 漁師でと
おじさんの 悪タレで 人の間を さ迷い続けていた
青年の頃を 思い出していた(明日叉報告)
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その3)
思っていた処もあり
おじさんには 無かったが
何処か 似ている
貧乏青年が
妙に気になっていた
これからは しない事を
約束 炊飯器は
プレゼントで
頑張る事を 説いが
どうにも 気に成って 当面仕事が 無いのなら 明日から
おじさんの所で アルバイトを 進めたら 少し目に涙を
浮かべては ボソボソと 感謝にならない 感謝の言葉が
返ってきた。
周りの 女性群は 大反対であったが
だが おじさんの一言は まだ 心強く生きていた。
「馬鹿たれドンが しよんあるかァ!」
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その4)
自己納得が 始まっていた。
(本当に悪なら出てこない
それに 人間究極に
成ると魔がさすもんだ)と
貧乏青年は 翌日から
出勤するようになった。 多少周りから 変な目で見られる事を
意識しながらも 彼は 食うための仕事に 一生懸命であった。
一日が終えると 初日給を 渡して
”もう 妙なこつ すんな 毎日日給ば やるけん 自分と
生活を 立て直すごつせにゃー
多少 人は良か目じゃ 見らんばってん ぬしに与えられた
罰と 思とかにゃ よかか”と伝えたら
”ナーン 俺るが 馬鹿だったつだけん よかです。”
帰って行く後姿に 今耐えて男になれ 夢を持て 立ち上がれと
過去の おじさんに叫ぶように 心で青年に投げ掛けた。
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その5)
もう一つ 心配があった。
”オイ まさか サラ金に
借金は 無かろうね?”
”・・・・・・・・・・・”
やっぱりか
一番目に就職した所を 辞めたときに 食うものも無く
2・3箇所 借りたと言う。
聞けば そんなに大金には 成っていなかったが
元金金利払いで 結構大きくなる 途中であった。
全部の サラ金の場所と 電話番号と 金額を
もって来るように 伝えた。
彼は 地獄の一丁目に 指しかかっていた。
理由が つかめず どぎまぎする 彼に おじさんの地声が
呻った。
”今は 黙って 俺るが 言うごっせェー!”
何処か おじさんを育てた養父の 言葉にも似て しゃがれた
海の匂いのする声であった。
今は おじさんは 青年に隙間を 与えず 高圧的に
押し捲る事にした。
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その6)
同じ轍を 踏んで 欲しくない
一心が 口調を荒くした。
持ってきた 資料で
交渉し始めた。
おっさんには
何回も 同じ事で 自信があったが 際どい交渉は いつも疲れる。
おじさんの 策は 一日 日払いで 7.000円稼ぐとすれば
日に 2.000円返済に 当てると一月25日以上実働で
50.000円以上は 返済できる。
借金・現在で金利ストップで 1.000.000だとすれば
50.000の 20回で つまりは 1年8ヶ月で 返済可能であった。
この交渉で 何回も 青年達は 生き返って 我が社を
卒業して行った。
青年達も残った。 5.000円で その日の 生活を 切り盛り
しては 最後には 箪笥預金も 持てるようになった。
自分の 価値や 働きは 一度・一日の 報酬金に
変換してみると解る。 一ヶ月幾円では 実感として
解らなく おまけに 金銭の価値さえも 解らなくなってしまう
彼らの ポケットには 毎日の日当が ダブついて
不思議なことに 無駄使いが 少なくなってくる。
今までと 違わず 彼にその手策で迫る事にした
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (その7)
竹節の 適量な
長さをの一節の上部に
コイン入れの
口を 作った。
以前から 普通の
貯金箱は たくさん廃棄で出るんだが おじさんに取っては
何よりも 古い形の 貯金竹筒が 欲しかった。
柱に 打ち付けた竹筒に 毎日割り当て金額を 入れる事を
進めた その意味も 説明して これが 実行され終了した時は
仕事も 辞めて 他に 生活基盤を移すこと
独立もよし 勤めもよし 一つの節目と 自己達成を得た事の
自覚を 次の過程で 生かせるように 環境を変える事の
大切さを説いた。
竹筒は おじさんが 毎月割り サラ金えの送金する事にした。
そして 次の月の 竹筒を 叉作っては 柱に打ち付けた。
2010年04月02日
炊飯器と人の一生 (最終)
長く 成ってしまったが
端折って 言えば
それ以来 青年は
実に 素晴らしい
現実と 夢と・仕事・生活を
学び取っては
10年も 経っただろうか。
いや 私にとっては
逆に たった 一日の事で
長い間 30歳前まで たいへんな束縛を 背負わせて
しまった事に 気が付いたのが 10年も経ていた。
青年も 節目だと思ったのか 卒業を申し出た。つらかった
弟のように 知らず知らずの 内に思い
仕事では 居なくては成らない 存在に成っていたが
おじさんは 気丈に高笑いを見せては 彼に 会社を
辞める事を 許可した。
思えば 長い反省と 努力の青年であった。
たった 一日の悪行の償いが 10年も かかってしまったが
勿論 サラ金返済はおろか 預貯金まで在っての退社に
成った。
聞きたく無かったが ”親父さん お世話に成りました”の
言葉まで 置いていった。
青年よ 君は誰よりも素晴らしく 誰よりも 輝き美しい
誰よりも 青年であつたと 伝えたかったが おじさんの気性では
心で 叫ぶ意外に 無かった。
それから 結婚式の案内が来るのにそう時間はかからなかった。
それが 落ち着いた頃に彼の会社の 3周年の記念パーテーの
案内が さらに来た事も 泣きながら読んだ事も 思い出す。
夢のような 話ではあるが これが現実で おじさんが長年
少年や 青年達に 関わりながら 問い続けた 良い例の
現実で ある事を付け加えておきたい。
2010年03月03日
2010年01月30日
知覧特攻基地
出て止まらなかった。
初めての 知覧の
特攻平和会館で
あったが。
展示の 遺書を
読んで 行くごとに どうしようもない 悲しさが込上げる。
何を どう表現すれば 良いのか分からない。
15歳の 少年が 毛筆の 金釘字で つずる国を憂い 家族を思い
後世の世を思い 逝った姿は 人の言う
洗脳でもなければ 時の世の歪でもない。
あるのは 純粋に人を愛する 心だけだと思っている。
死を 覚悟した者のみに 共通する ある種の人を思う安らかさが
そこにはある。
少年達が 託した 後の世の 大人達の 有りようは どうだ。
必死で 駆け上がった戦後は まだしも
今の政治を 今の日本を 今の人々が 彼らに誇れる
安心の 日本なのか!
偉大なる先輩少年達に想う。