熊本県内外。九州管内。全ての地域の ごみ処理
熊本ごみしょり・廃棄センター
株式会社 くまもと流通
電話連絡先 096-384-9162
洗濯機・冷蔵庫・クーラー・茶碗・ベッド・ガラス・衣類・家具・
タンス・おもちゃ・機械・金属。樹木・コンクリート・土・石・草・
家屋解体・ビル解体・薬剤・液類・備品・布団。楽器・紙類・船・テレビ・
じゅうたん・書類・倉庫・食品ごみ・車・臨時ごみ・定期ごみ・(人間) 以外のすベてを (処理。解体。買取り。)ご相談 お待ち 致しいます
各項目。店名。文章。をクリップしてください 専門HPへ移動します。
2011年04月15日
桜通りの平戸つつじに九重平治の深山霧島を想う


桜が散る頃に 自衛隊前の 平戸つつじが
待っていたように 下部で花開く
事の並びに 雲仙つつじも
九重の坊がつるから 平治の片峰に
咲き誇る 深山霧島を想う。
5月には 散策出来そうな 感じがする。
残雪恋し 春山も又良し
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2011年04月10日
季節の迸る美しさと心和むゴミ焼却場


西原村・益城町の 広域ゴミ焼却場である
高々と 煙突を掲げては その焼却煙を
廃出するがその縁淵に咲く桜は 天候的に
暗い日であったが 美しかった。
ゴミ焼却場が 世に言う 掃き溜めには
違いないが そうであれば さしずめ桜は
”白鶴”であろう。
なんだか 毎日が ゴミや 廃棄物や
家屋解体に 追われる生活であれば
年に数回は 季節の花に 改めて
迸るような 地球の美しさを
思い知らされる。
本来地球が 作り出した美しさは
何にも 変えがたい 何時の日か
「ゴミなんて 何処にあるんだ!
商売上がったりだ!」と
おじさんに 言わしめる日が 来ることを
願って止まない。
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2011年04月04日
故郷・天草・春の峰公園
故郷・天草・湯島・峰から 見下ろす
漁港と 集落を 眺むるに
いっ時の 癒しの世界である。
春・山桜満開に 海渡り鶯の 声はすれども
まだ 肌寒く 花冷えに 春・花霞あり
されど この地に生まれ この地に巣立ち
今もなお この地を愛し
眺むるに この地を誇りに思う。
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2011年04月01日
悪夢と民族の誇りと偶像組織
どうやら 手の施しようの無い
大・大型ゴミに なってしまった。 一方では
小規模構造 大エネルギーの 素晴らしき
安全発電で 日本国民の誇りとも
民族の 英知の象徴とも言えたが
神話は 地に落ちてしまうどころか
厄介者の手に負えない暴れゴミになった。
最早 協力を惜しまない 外国も
裏を返せば 処理できないゴミに
世界が 困らないうちに
何とかしなくてはと 思い始めて
処理実験に似た形に 成ってしまった
東電の 国内で自分の尻を 拭えない
様に なんと 恥ずかしいことか
武士道は何処だ 慎重さと用意周到なる
諦めない日本技術魂は何処へ行ったんだ
最早 売り込みも
営業もしない 出来ない又しなくとも
喰える企業に 研究も 探求も 応用も
任せる事は出来ない!
悪夢だ!悪夢であって欲しい
その悪夢であれば 時が来れば
目覚めるはずだ。
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2011年03月30日
海と大地と地震の神ポセイドーンにお願いする。
どう見ても 神や 仏が与える試練とは
思えない。
こんなに 悲惨で悲しいこともなかった
およそ人の世に 悪も 悲しみも存在したが
こんなに 次々と 送り込んで来た悪夢は
なかったような気がしてる。
もしも 現世から 願い事が届くとするならば
これ以上の 母を 父を 家族を 泣き叫び乍
探し回る 子供を作らないで欲しいと
偶然でもいい 奇跡でもいい 木材と木材の
隙間にでもいい 生かせてもらえるなら
心臓が動いているだけで結構だ。
周りに 飛び交う神様 仏様 恵比寿様
海と大地と地震を つかさどるポセイドーンに
お願いしたい こんなに尽くせない試練を
与えないで欲しいと・・・・・・・
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2011年03月26日
震災と人の知恵と未熟さ

自然の 猛威の前には 成すべくもなく
国の責任者どもは 想像を超えた災害に
たじろき乍 それを理由に対応の遅れを
解釈する。
自然を 予想・6メーターが
津波の 最高値だと言うが それ以上に
なることもある。
外海ヘ飛び出せば それくらいのうねりは
目にする まして一度 放出されれば
消滅されそうもない 放射能であれば
尚の事 その予想標準は
常識を超えたところに 置くが正しい。
でも なければ 自然界の 物質を
コントロールするには 余りにも
人の英知も 能力も 経験も 未熟だ。
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2011年03月24日
悲しみに暮れる

朝から 寝るまで 悲しくてしょうがない
鬼瓦のような おじさんににも涙もある。
特に 噛殺した 赤銅色のおじさんが
死んでいった子を思い 顔をゆがめる
姿なんて 昔の何事にも 悲しい顔を
見せなかった養父を 思い出す
船も 家も 家族も もって行かれた
悲しみなんて 海縁に生活を営む者に
取っては 言い表わせようがない。
生きて欲しい 生きて欲しいと
願うばかりだ。
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2011年03月17日
危険度・危機感・自然えの敗退

地震で ストップ発電 常用電源停止
水の循環ポンプ停止
非常用発電機起動(ディゼルエンジン発動)
電源切り替わり 再度循環ポンプ起動
循環水起流 燃料棒冷却
これが災害時の 流れであったが
どこかで 狂ってしまった。 先ずは
非常用発電機(ディゼルエンジン)が
起動しなかったことだ。
理由が解らないが ディゼルエンジンは
多少 水をかぶっても 水中でも
排気筒さえ 空気中に 排出できれば
必ず作動する だから船舶エンジンにも
使用されている。
それに 燃料切れなんて考えられない
人の命を 預かる者の 危機感のなさに
あきれ返るし 自然特殊物を 燃料に
コントロールする 高等能力も
心構えも 真剣度も 危機感も
技術力もない 今一度考え直すことだ。
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2011年03月10日
国の行政機関の移転と行政得ヘのリサイクル啓蒙活動

猛者どもの 夢の後だ。
熊本駅前の 合同の庁舎 一号棟の完成で
某・国の行政機関が移転した。その後の
廃棄・リサイクル・清掃と 我が社で
入札・落札した 多少とも方法は違っても
主体のリサイクルを 認めてもらった事は
ありがたいことである。
努めて 事あるごとに 一番の行政機関が
中間リサイクルの 商品の延命を計る事で
税金・経済・エコ・大きくは目に見えないが
貢献度が大きい事を 唱えて来たし
説得もしてきたが しかしなかなか浸透せず
まだまだ 一部だが これからも 得々と
伝えながら この仕事を続けて行きたい。
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2011年03月03日
家屋廃棄処理と心の廃棄処理と友達と団塊世代

前出の 友達の ゴミ屋敷は 11日間
延べ31人人工・4t処理トラック20台を要して
どうにか見れるように 成ったが 荒んだ柱や
壁は 改修工事が 必要に 成って来る。
家の方は 何とか お金をかければ
修復出来そうだが 心配は 友達の
心の修復である どうしてこんなに成ったのか
やさしく追求しても
どうやら 返答に行き詰まる
今は 聞くまいとも思うが 男63歳も過ぎる
やがて 責任年代の頂点の 団塊世代だ。
月並みの 生活をしてきたわけでもない。
そうそう 世間から逃げる訳でもなかろう。
アルツハイマーの 走りでもなかろう。
もう 聞くまい これまで通り 若い頃から
親 兄弟に 相談する事もなく いつも独自で
解決してきたし これからも尚そうあるべきだ。
免許や 許可書が 取れるのであれば
その君の心の廃棄物も 処理してあげたいもんだ。
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2011年02月19日
箕甲造り家屋と友達と精神状態とゴミ


何を 考えているのかさっぱりわからない。
ゴミの上に 一畳ゴザで寝ていたと言う。
悲しいかな 私の友達で それなりの人で
最後に相談が 来た時は 何処も仕事を
請けなくての 相談であった。
写真は その一般で見れる程度の 汚さで
その他の 見せられないような部分ありで
30年間の ゴミ処理で 1・2を争う汚さで
悲しいやら 精神状態を疑うやら
部屋の高さの 半分くらいの位置まで
ゴミで埋まっていた
それに猫が 20匹くらい自住していた。
それで ネクタイ背広で 出勤していた
多少 体から臭いは 放っていた事も
あったので勘違いで タバコの吸い過ぎを
注意した事もあったが
ついには 体を悪くしてしまった。
この頃になって やっと その理由が
判った様な 気がしている。
”何とかしなくては!”
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2011年02月15日
「心の中の故郷」 ー天草島ー 荒木忠夫

先日.会社の定期歯検診で.
私の歯を見た医者が
「この年齢で虫歯が一本もなく.
しかも歯並びが
きれいな歯は珍しい」と感心し.
生まれは どこかと聞いた。
私が 「九州の天草島だ」と答えると
「やはり そうですか」とうなずいて
納得していた。
その医者の 話では. 島育ちの人は
海藻などの食物の影響で 統計的に
歯が 強いのだそうである。
なるほど 私は38歳の現在になるまで
虫歯の痛さというものを
全く知らないし. 歯医者にかかった事も
一度もないのである。
しかし.私は.医者の簡単な納得に・
何か物足りなさを 覚えたのである。
私には.38歳の現在の強さよりも
歯が強くならざるをえなかった幼少時代の
ふるさとでの貧しい生活.しかし.その中でも.
常に ほのぼのとしたぬくもりを
感じさせてくれた母の.心の匂いが
大切に 思えるのである。
私のふるさとは.熊本県の 天草島である。
島原の子守唄に
「おんのいけん(鬼池)
忠助どんの 連れんこらるばい」と
歌われている 天草下島の最北東にあたる
五和町鬼池(おんのいけ)という港のある
半農半漁の 小さな町である。
五和町は.昭和30年頃.五つの村が 合併して
出来た町であり.私はその中の
鬼池村で育った
私は昭和23年頃
鬼池(おんのいけ)小学校に 入学した。
私の家は いわゆる五反百姓の農家で
八人の子供を 養うのは楽ではなかった
米の飯を食べるのは 盆と正月と村祭りに
限られており 日常は さつま芋か
麦飯であった。 しかし当時は鰯が豊富で
地引網でいくらでも取れた為
食べきれずに 田畑の資料(いわしこえ)に
するほどであった。
私たち兄弟は 厳しい父に この鰯を骨のまま
食べさせられており 父の目を盗んでは
そっと骨を お膳の下に隠して 捨てたのを
覚えている。芋と 鰯が当時の
私たちの常食であり お菓子や飴など
甘いも物など めったに食べられず
鰯を骨のまま食べてて 腹を満たしていたから
歯医者などいらないのである。
終戦から何年かは 日本中 どこでも
同じような 食料難の状態が 語られているが
私の家では 零細農家のうえに八人兄弟という
子沢山で 私が中学に 行くようになっても
あまり 生活水準の向上は みられず
相変わらず同じような状態であった。
当然のように 姉や兄は 中学卒業と同時に
口減らしの為に ちょっとした コネでも
頼っては 島から 出て行ったのである。
私は 姉や兄が 小さな連絡線で
港から出て行くたびに.突堤の先端の
赤灯台の下で.いつまでも立ち続けていた
母の姿を.
今でも はっきり思い出すことが出来る。
海の上に約200メートルも延びた防波突堤と
その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは
8月15日の夜の幾重にも重なって.
その灯台の沖を流れる精霊船と共に
私の心の中にある
ふるさとの一つの風景である。
鬼池には 天神山と言う富士山に似た形の
山がある。
天神山は 鬼池で一番高い山で.
海抜171メートルあり その山頂からは
村中が見渡せ.海の青さと小さな島々の
松の緑.波の白など
その眺めは 素晴らしいものであった。
天神山は 鬼池村の守り神で 山頂には
ほこらが建てられ.7月25日が
その祭りであった。祭りには 仕事を休み
ダゴ(田子)を 作って祝い.
山頂で子供達の相撲大会が
行われるのであった。
私は一度だけ その相撲大会で関脇を
もらった事があった。
中学一年生に 入学した年の春の遠足は.
私にとって.一生.忘れられない遠足であった。
遠足の楽しみは弁当であり. 私の家でも.
遠足の時だけは母がいつも. 米飯の大きな
にぎりめしに. 玉子焼きを
添えてくれるのであった。
その遠足の朝.母は. 私に弁当を渡しながら.
悲しそうな目で. 中味が芋であることを
告げたのであった。そして. 私の手を強く
握って.しばらく離そうとはしなかったのである。
私は大声で母をののしり. その手を振り解いて.
泣きながら走ったのであった。
弁当の時間. 天神山のつわぶきの.
芽吹いた藪の中で. 私を探す友達の声を
遠くに聞きながら. 私は空腹に勝てず.
その芋を 泣きながら. かじったのだった。
中学生の私には. その時の母のつらさが
どんなものであったか 理解できるはずもなく.
帰ってからも.母をせめ続けたのであった。
昭和36年の夏 天草地方は未曾有の
大干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は
至るところで井戸が掘られ
水探しが続けられたが. しかし雨はいっこうに
振らなかった。 そして誰が言い出すこともなく.
雨乞いをすることになったのである。
各農家から一人づつ人を出して.
何人かづつ組になって. 天神山の山頂から.
雨乞いが本当に行われたのであった。
毎日朝から夕方まで天神山の上で打ち鳴らされる
太鼓の音が. 村中に響き渡ったのである。
私の家からは 母が出ることになり.
真剣な顔をして. 近所の人達と一緒に.
山道を登っていったのであった。
その雨乞いの結果で 雨が降ったかどうかは.
はっきりした記憶がない。しかし 今でも
天神山の祭りが 続いているところをみると
多分. 神様のごりやくが あったのでは
なかろうかと考えるのである。
鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい
姿も又. 少年時代の思い出の中で.
何とはなしに 母のイメージと重なって.
私の心の中に. ふるさとの風景として
残っているのである。
天草の正月も又. 母を通じて.
私の心の中にひとつの風景を残している。
それは私が中学三年生で. 高校受験を
間近に控えた頃のことであった。
私は先生の勧めもあって. 他の二人の
友人と共に.天草島を離れ. 熊本市内の
高校を受験する事を 目標に頑張っていた。
市内の高校に行く事になれば.
下宿が必要で. その為に要する費用は
大変なものであった。
8人の子供をかかえた五反農家の父母には.
とうてい. そのような余裕など
なかったのである。
それでも父母は 何とかして.
私を 希望通りの高校に 進学させようと
いろいろ努力をしたようであるが. やはり
無理だったのである。
12月の或る寒い夜. 父は私を囲炉裏の端に
座らせて. 市内の高校をあきらめて.
地元の高校に進学して欲しいと私に言った。
私は 泣きながら父のかいしょうの無さを
大声でののしった。
日頃. 厳しい父も その時は無言で何かを
かみしめているようであった。
母は 何かを頼むような目で
私をじっと見つめ その目には
涙が光っていた。 しかし 私は
消えかけた囲炉裏の火を 見つめながら.
父母をののしり続けたのであった。
それから 私は 勉強もせず.
家族にも 口を聞かない日が続いた。
その為 家の中は 毎日なんとなく 重苦しい
日が続いた。 そして 年が開け元旦となった。
私は. 家族全員で 行う初詣にも参加せず.
一人で布団を かぶって 寝ていたのであった。
朝 目を覚ますと 枕元に5・6枚の年賀状が
置いてあった。
私は 床の中で 何気なく それを手にし
たいした感情もなく 一枚づつそれを
めくっていった。
それは ほとんど同じクラスの
友達からのもので
今年もがんばろう 今年もよろしくと言う
内容のものであった。しかし 最後の一枚を
読みながら 私は驚いた。
それは およそ年賀状らしくない
長々しいものであり 鉛筆書きでところどころ
その芯をなめたらしい 濃い部分が残り
カタカナまじりで 書かれていた。
差出人の名前はなかったが 私には それが
同じ家に住む 母からのものであることは
すぐに 判った。
「お前に あけましておめでとうと言うのは
つらい。でも.お母さんは. お前が元旦に.
みんなの前で 笑いながら.
おめでとうといってくれる夢を
何回もみました。お母さんは 小さい頃.
お前が泣き出すと. 子守歌を唄って.
泣き止ませましたが.
今は もうお前に 唄ってやる
子守歌も無いので 本当に困っています。
今度は. お前がお母さんに
子守歌を 唄ってほしい・・・・」
十四歳の私は 元旦の床の中で声をあげて
泣いた。 それは.中学三年生の反抗期の
私に対する 母の心からの
子守唄だったのである。
この母の子守唄のおかげで.
私は 立ち直り地元高校に進学し
その後 高校を卒業と同時に大学へも進学した。
父は.私の大学入学の時.大切に残してあった
山の種松を 売って3万円の 入学費用を
作ってくれた。 しかし その後は
私は 父母の援助も ほとんど受けず
アルバイトと 奨学金で大学も卒業することが
出来たのであった。
そして.現在の会社に就職して
もう.十六年が経ち.長男もやがて
中学生になろうという年齢になってしまった。
そして 昔の私と同じように.
もう. 親に反抗をし始めているのである。
しかし 私の心の中に
ふるさとの 母の匂いのする鬼池の赤灯台と
天神山の やさしい風景がある限り
私は 大丈夫だと思っている。
母も 70歳となった。この母が.
これから どんな子守唄を
唄ってくれるのだろうかと 考えながら
ふるさと出身の妻と 反抗期の子供をつれて
私は 母の住む天草島に 今年も
帰りたいと 思っている。・・・・・完
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Posted by 熊本ごみしょりおじさんと湯島紀行 at
12:04
│Comments(1)
2011年02月14日
収集車炎上と青年の悲観
小さい我が社にも 人並みに災害は
やってくる 違わず ごみ収集車(パッカー車)が
燃えてしまった。購入して1年にもなってないが
100円もしないような ガスライターに
900万円もする車が いとも簡単に 燃やされて
しまった。
ゴミの選別も 大切だが 捨てれるものと
捨てれないものの選別も 大切である。
オペーレーターの青年たちも 気を使いながら
収集ではあるが 小さいライターは
見落としがちだ。何と言っても燃えたものは
仕方が無いが まさかの保険もききそうにない。
責任を感じて ふさぎ込む青年が
可愛そうでならない。
「そがん しょぐんな 又働いて
取り返せば よかじゃなかか!」
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2011年02月10日
解体仕上げと無欲の仕事人

前での 団塊所有の 解体工事も終った。
現場的には スカッとして 次の売買にも
山砂仕上げで 土地の価値観にも 少しは
貢献出来そうである。
ここまで来ては おじさんも 同じ世代で
そんなにだいそれた 家も欲しくなければ
そんなにだいそれた 贅沢心もない
ただ 心残りするのは
細々と 灯し続けて来た
いや今も 灯し続けている 企業大成への
夢だけである。
何が何でも 仕事を優先に走り続けて来た
これからもそうで まだまだ 過去形には
したくなく
たとえ走る事のみが 夢ヘの続きだと
非難されても 尚 走り続ける。
どうにも 走り続ける事が
与えられた 宿命なのかも知れない。
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2011年02月07日
鹿児島・桜島と垂水のアコウ樹
ただいま 小爆発が 二時間越しで
アコウに 灰は被っていたが 久しぶりの
桜島・藤野のアコウを 見ることが出来た。
桜島フェリー船着場から 左に回って
藤野町から
垂水の 海岸道路・アコウ並木が好きで
時々 鹿児島ヘの仕事コースには
必ず 取り入れる。何処も羨ましいのは
樹を大切にしていることだ。それもそのはずで
樹齢100年は ゆうに超え
樹齢300年くらいの木もある。
ここの アコウ樹見るたびに
湯島の 切り捨てられた樹を思う。
もっと 前に保護する事を
考えるべきであったと 垂水の並木は
海岸道を 拡張するとき移築する住居の
屋敷後に あったものを 道路沿いの
海岸線に 移植したものだが
どれも 100年以上の樹齢で
町の北端から 南端まで 40・50本は
20・30mの並木感覚になっていて
素晴らしい 心の中で
湯島には もっと 高樹齢のアコウが
あったんだと 過去形の自慢に
じわっとした 悲しさを覚えながらの
観賞あった。
桜島・漁師村・藤野町の
現在火山灰かぶりのアコウ樹 上3枚



垂水の海岸・アコウ並木30~40本あり
上の二枚は 別の日写し
下の一枚は 現在火山灰被り状態



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アコウに 灰は被っていたが 久しぶりの
桜島・藤野のアコウを 見ることが出来た。
桜島フェリー船着場から 左に回って
藤野町から
垂水の 海岸道路・アコウ並木が好きで
時々 鹿児島ヘの仕事コースには
必ず 取り入れる。何処も羨ましいのは
樹を大切にしていることだ。それもそのはずで
樹齢100年は ゆうに超え
樹齢300年くらいの木もある。
ここの アコウ樹見るたびに
湯島の 切り捨てられた樹を思う。
もっと 前に保護する事を
考えるべきであったと 垂水の並木は
海岸道を 拡張するとき移築する住居の
屋敷後に あったものを 道路沿いの
海岸線に 移植したものだが
どれも 100年以上の樹齢で
町の北端から 南端まで 40・50本は
20・30mの並木感覚になっていて
素晴らしい 心の中で
湯島には もっと 高樹齢のアコウが
あったんだと 過去形の自慢に
じわっとした 悲しさを覚えながらの
観賞あった。
桜島・漁師村・藤野町の
現在火山灰かぶりのアコウ樹 上3枚



垂水の海岸・アコウ並木30~40本あり
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下の一枚は 現在火山灰被り状態



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2011年02月04日
緊急用大型発電機の処分とリサイクル再使用

ジイゼル・エンジン付き 緊急用発電が
入れ替えである 。
通常の商用電源が 停電と同時に
エンジンが始動 自動発電する もう何年も
経過してはいるが 年に一回か二回の起動で
そんなに エンジンも 発電機も
悪く成ってるとは 思わないが いろいろな
基準法では 耐用年数を 経過している為に
取替えになる 元々 エンジ二アの
おじさんには 勿体無い話である。
何とか リサイクル再使用できないものか
引き取って 検討中である。
中国からの 買取取り申し込みが
あった事を 覚えている。為になるなら
値段の問題は別である 再び陽が当たる事を
願ってやまない。・・・・
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2011年01月31日
建設ブームの若き団塊の城と解体

こんな 木造建築が おじさんたちの
若い頃に 一国一軒の領主に 成ることが夢で
あせっては 買い求めて
やがて 団塊世代の 家持建築ブームを
巻き起こし 高度成長の延長で
家の良し悪しは ともかく 新建材の
軽量資材家屋は 今 解体して見ると
なんと お粗末な城であり 城主であった事を
嘆くばかりである。
幼少の貧乏さの反動か 何が何でも買い求めた
城は 余りにも情けなく 小屋同様の仕上げに
その頃の 建築のレベルも問われる。
それでも 多少の夢を叶えてくれた事に
感謝する。しかし それもこれも 過ぎた事だ。
時代は繰り返す 二度と淡雪みたいな 経済や
家や 子供たちを 育てては成らない。
戒めの仕事である。せめてもの救いになるのは
多少の 値上がりした土地が
残った事だけだろう。
某・解体現場に思う。
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2011年01月27日
天草・牛深・遠見山・水仙公園・東支那海
久しぶりの 天草・牛深・遠見山・山頂から
東支那海を 望んだ。眼下に牛深港
曇ってはいたが
支那まで届く 海が広がっていた。
水仙公園の 水仙は まだ チラホラであったが
少し奥深い 自然の早咲きの 山水仙は
もう すでに咲いていた。
湯島も そろそろ時期だと 気があせるが
2月初旬まで待って 葉先の折れない
踏み付けられたような 固めの土から目を出す
”島水仙”を 見に行きたいと思っている。
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2011年01月18日
廃棄業者の主張・リサイクル業者の主張・日本の無能
結局は ”無料回収”の 看板が立ち並び
家電品が 回収されて行く おそらくは 中国
東南アジア等に 向けての輸出で
日本の家電法との 係わり合いは どうなんだと
問いたい
確かに リサイクル処理代が いらないのは
一般市民に取って ありがたい話ではあるが
肝心な 国内の資源保護や 再資源は
どうなるんだ。しかも リサイクル販売店の
無料収集も 禁じている。
私が主張した新品買取に リサイクル料金を
税として 加算する方法が よっぽどましだ
収集料金の問題 収集先の保管の問題
収集場所の 防災処置 運び出し貿易の問題
どれとして 明確な答えを出さない通産省に
各行政 小さなことだが 乗っ取られかねない
日本の土地 何一つ 手が打てない日本
しっかりしろ~い 日本!
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2011年01月14日
某行政の新築移転とエコ対策


某・八代行政の 新築移転が終了
仮説宿舎の 整理引き取りの 我が社も
今週いっぱいで 終了しそうだ。
再販リサイクルあり 資源リサイクルありの
買取・廃棄・引取りであったが
行政から 選別の権利を 収得できた事が
行政の 再販リサイクルえの取り組みを
深くしていく 引いては税金の無駄使いも
経費の無駄もなくなり
再販されて 再使用する人には感謝される
こんな良いことはない。
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2011年01月09日
トイレセットとモデルハウスとリサイクルと廃棄

結局 このままだと これも廃棄に 成ってしまう
方々に出来ている モデルハウスも
商品の 60%は 次のモデルハウスに
移されて行くが 何せ モデルハウスである。
次のハウスは 又 新しい形で 様変りするのが
普通で だからと言って お買い上げの
分譲住宅や 新築住宅には 一度使用の物は
売れないのである。
解体時に リサイクルになるが
これも住宅メーカーの 売り出す値段が
高くなり これも 考えもんだ。
どうせ 解体・廃棄になるんであれば
格安・リサイクル販売出来る値段でも
良いのではないかと思うが
そうも 行かないのだろう。
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ksrkhiroshi@yahoo.co.jp

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2010年12月31日
国家大組織の変移と小商人の努力と地球にやさしく
御感謝
今年も お世話に成りました。
廃棄企業・株式会社
くまもと流通一同
感謝致して降ります。
来る年も 盛況を祈って
一年の〆と致します

来る年 初月初旬に 八代の某・国機関の
新築・移転に伴う備品の払い下げが始まる。
量的には 1.000点にも及ぶ(一部設備含む)
つまりは 買取である。
もう このリサイクル入札で 払い下げが
始まってから 5年も経過した。
その前は すべてが 廃棄処理入札で
勿論 廃棄代金を 頂いての仕事で
まだ 使用可能で再販出来そうな机や備品が
廃棄処理されて 代金授受ではあったが
商品の 再販もリサイクル・ショップ販売も
出来なかった。何が エコだ!
何が 循環型社会だ!と 力んで見ても
国家大組織を 動かすには 至らなかった
しかし 時節も良かったのか 通い続けて
一例をと 一回目の リサイクル入札契約が
出来た時は 天にも上る気持ちであった。
小商人でも 国家大組織を 動かせた自信は
今に 至っては 何事にも屈しない
改めて 努力と言う文字が 慰めや励ましの
言葉で無く 実現できた言葉に
感じれるものになった。
順じて 他の地方行政も リサイクル入札が
出来るような 兆しが見えて来た事は
もっと 嬉しい。
勿論 廃棄処理代の 受金も無くなったが
それよりも 自分の職業柄 エコ事業や
地球のやさしさに 貢献できる事が
一番の 喜びである。
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くまもと流通一同
感謝致して降ります。
来る年も 盛況を祈って
一年の〆と致します

来る年 初月初旬に 八代の某・国機関の
新築・移転に伴う備品の払い下げが始まる。
量的には 1.000点にも及ぶ(一部設備含む)
つまりは 買取である。
もう このリサイクル入札で 払い下げが
始まってから 5年も経過した。
その前は すべてが 廃棄処理入札で
勿論 廃棄代金を 頂いての仕事で
まだ 使用可能で再販出来そうな机や備品が
廃棄処理されて 代金授受ではあったが
商品の 再販もリサイクル・ショップ販売も
出来なかった。何が エコだ!
何が 循環型社会だ!と 力んで見ても
国家大組織を 動かすには 至らなかった
しかし 時節も良かったのか 通い続けて
一例をと 一回目の リサイクル入札契約が
出来た時は 天にも上る気持ちであった。
小商人でも 国家大組織を 動かせた自信は
今に 至っては 何事にも屈しない
改めて 努力と言う文字が 慰めや励ましの
言葉で無く 実現できた言葉に
感じれるものになった。
順じて 他の地方行政も リサイクル入札が
出来るような 兆しが見えて来た事は
もっと 嬉しい。
勿論 廃棄処理代の 受金も無くなったが
それよりも 自分の職業柄 エコ事業や
地球のやさしさに 貢献できる事が
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2010年12月26日
まぼろしの湯島”峰(ミノ)大根と湯島鯛

最近はありがたい事に 海路・湯島でありながら
海本番でありながら
産物の”まぼろしの湯島・峰(ミノ)大根”の
新聞・ラジオ・テレビの紹介が多い。
おじさんも 多少 畑もあり 帰って大根生産に
精出そうかと思うくらいいであるが
漁師の 僻みではないが 魚をブランド化して
幻化出来ないものかと あらぬ悩みを勃発させる。
しかし 物産も 魚も 現代では造ったり
ブランド化したりで 産地の名前を知って貰うが
為の 活動から入るが
もともと この湯島生産物は 他地方の活動と
違って ほとんど 売り込みもなく
自然発生的に”まぼろしの 珍味”に
成ってしまった。本物はかくあるべきの
手本みたいなもんだ。
”良いものは いいんだ!”の世界だ。
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2010年12月19日
倒産整理と良策?と最良成る方法?


又しても ひとつの会社の 歴史が終わった
ありがたい事に 悲惨でもなく 社員を路頭に
迷わせるでもなく 回りにも迷惑をかけるでも無し
淡々とした閉鎖であったが 会社破産には違いない
多少の 利害関係のあった所は 仕方のない話だ。
完全な経営も 完全解決なる倒産もある分けも無く
付き合があって 多少でも この会社から利益を
与えて貰った 卸やさんや 協力会社は 覚悟の
取引であったろう。
不幸は最小が この時の 最高の良策だ。
不幸はあってはいけないが
あったとしても かく有りたいと思うのだ。
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2010年12月11日
家屋・解体と仕事と過去と夢


どうやら 新大江の住宅地・住宅の解体も
50%くらいの 進行度である 古い木造で
しっかりした 当時の新建築か 木造でも
繊細な 細木造りに成っていて
それは それで 荒々しさの無い 優しい
建築である。
時々 どうしてこんなに
日本人は 器用なんだと思う。
同じ時代に ダイナミックに
抱き回しきれそうもない 一本檜を中心に
太々と 自然美を展開していくと思えば
こんな繊細で 宮造りににも似て
細々とした 寄せ上げ造りで 美しさを
こんな 町の中心に 造り上げる。
家屋解体も その時代の 職人さんの生きざま
木資材の在り方 その時代の暮らし
遠い過去も見えてくる 何時も思うのだが
どんな仕事にも 楽しみもあれば
勝手に描ける夢も 過去えの誘いもある
仕事とは そんなもんかも知れん!
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2010年12月09日
某大手工場の閉鎖と税収と海外事業の活性

某大手八代工場の 整理・処理買・取が
二期目に 入った。
事業体・先端では 矛盾した事が 起きている。
閉鎖は 景気の 都合で仕方ないにしても
経費をかけての 閉鎖作業はなんとも勿体ない
話である もっと勿体ないのは
備品のほとんどが 経費のかかる処理で
それ以上の矛盾が 取り外した製造機械ラインの
行き先がベトナムや タイ・中国の某社の工場で
現地工場を 増設・増員生産アップすると言う。
一方では景気の良い話で もう片方では悲しい話だ。
この税収の少ない国内なのに 500名の従業員から
どれだけの税収があり
会社からどれだけの営業利益・税収があり
協力企業の税収 車税 ガソリン税 電気 水道
従業員保険税 末端までの税収損失は大きすぎる。
企業を育て 存続させる事は 国や地方行政体の
義務ではないのか。無論 製造メーカー企業体も
然りである。
黙って 国外に税収や 人件費を持ち出させる
国や 地方行政も 考えられない 羽振りの良い
政権勝ち組 新進・民主党は雇用を第一に掲げて
いったい何を考え
何を 残そうとしているのか
日本で生まれ 日本で育って
日本人の雇用を助けて 日本人が暮らせる
世の中で ありたいではないか。
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2010年12月05日
廃棄処理と支払側と支払われる側

県内では 中堅クラスの 某製作所で
当社も 混合産業廃棄物 見積入札に参加した。
官庁や 工場でも 進歩的な 大手所は
早くから 再生リサイクル商品と 産業廃棄物に
分けての見積も 多かったのだが
そんな指定も無く 廃棄処分の見積で
現場説明を 受けてみると おじさんの判断では
品物の90%は 再販出来る商品で
指定はなかったが 思いきって商品リサイクルの
見積と 産業廃棄物の見積に区分けして提出した。
なんと おじさんに落札したが この何十年間は
すべて 一回に数十万円も 費用をかけての
廃棄処分で あったと言う。
人は 黙って産廃で見積 廃棄料を頂いて
処理すると利益が 大きいのにと言うが
どうも おじさんには 騙すようで苦手である。
担当者は支払う側が 支払われる側になる不安に
戸惑いを隠せないが 仕事に支障がある訳も無く
それよりもアドバイスを 今まで与えなかった
業界に 情けなさを感じている。
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2010年11月30日
会社閉鎖と社長の死

結局在庫は 残ってしまった。
社長は死亡され 引き続く 会社運営も
できないままに 閉鎖に至る。
破産管財弁護士と 都合頃合いを
計りながらの 閉鎖手続き 現場買取
現場整理清掃 敷地競売と 進んでいく
何十回と 廻り合って 仕事をしても
どこかの過程で なんとか出来ただろうにと
思うも この道を選んでしまう。
何も 死ぬ事も 無かろうと思うが
人は 自分で死を 選ばなくとも 体が
悲鳴を上げ 体が選んでしまう
与えられた自然死の感もしないでもない。
ただ 悲しさや 苦しさの余りに
精神意志とは別に 肉体が選んでしまう
”死”も 悲しい事だ。
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2010年11月26日
煌びやかな家具・家庭と整理と処理

家庭の 最終的な 一軒分処理と言うのが
時々ある
どれだけ 幸福そうで 煌びやかな生活模様でも
処理や 整理が進むにつれ
少しずつ 生活事情が見えてくる。
聞いただけで 怒り狂う事情もあれば
泣けて 泣けて どうしようもない悲しさが
こみ上げてくるものもある。
又 その家庭の登場人物で 泣いたり 怒ったり
使い分けなくてはいけない時もある。
ひっくるめた人生に 最近では 人の成す様が
何が善で何が悪で 何が正義で何が不正なのか
見極めが 付かなくなってしまった。
生来の 不肖者のおじさんは こんな時は
ずる賢く 答えを出さない事にしている。
しかも どっちも 人生の一大事と
悪も 善も 真剣に考えては 突き当たる
小事 小事を 器用に振り分けながら
判断しては 進む事にしている。
”結果を急ぐなかれ!”である。
どうせ 70年も 80年も 生きる事業は続くんだ。
焦る事もなかろうて。
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2010年11月18日
人の終焉と引取・ごみ処理と”頑固一徹”

最近では 県外からの 依頼・引取・処理が多い
埼玉・神奈川・東京・大阪・名古屋と
先月も 5・6件も あっただろうか
歳老いた父母が 病院に入ったり 死亡したりで
後かたずけである。
中には 独り暮らしで 死ぬまで 家内業を
続けて 忙しさで 本人曰く 病気で寝込む暇もなく
天寿を 全うされた お父さんもおられた。
遠方から来た 娘さんや 息子さんは決まって
何回か一緒に暮らそうと 連れに来たんだけど
結局は 仕事があるからと 断られたと言う。
ここも 仕事をしながらの最後であったらしい
もう 87歳だった。
70歳前に お母さんが死亡され
それから独り暮らしで 淋しい話だが
一方では 87歳で 仕事しながら 病気する
暇がないくらいに健康に 死んで行けるなんて
素晴らしく あやかりたいと思った。
それと同時に 遺品処理・整理業等と
敬遠する業者も聞くが おじさんにはこの末端の
整理に携わる事に 誇りさえ覚え
人間の終焉の 整理の手伝いに
感謝さえ覚えている。
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